マニラ休養日と稲盛哲学|AI時代に思い出した「自分は道具」という生き方

マニラ行動日というか、休養日でした。休みつつも、無印良品(フィリピンではMUJI)を3軒はしごして買い出しです。フィリピンは在庫管理が厳しくて、欲しいものが欲しいタイミングで揃わない。日本なら普通にあるものも、こちらではそうはいきません。だから日本から持ち帰るか、マニラに出たときにあちこち走り回って確保するのが基本になります。

日経ビジネスで出会った稲盛さんと永守さんの記事

待ち時間や手持ち無沙汰な時間に、日経ビジネスのウェブ版記事『経営者たちの死生観「永守」と「稲盛」を分けたもの 人生の最終コーナーで失脚する社長がなぜ多いか 第3回 伝説の「東証講演」で稲盛が語った「人生劇場論」』を読んでいました。京セラの稲盛さんとニデックの永守さんを分けたものは何か、という記事です。特集全体が経営者の「死生観」をテーマにしていて、そこで語られていた稲盛さんの死生観が腑に落ちるものだった、という今日のお話です。

「永守」と「稲盛」を分けたもの 人生の最終コーナーで失脚する社長がなぜ多いか
ニデックの永守重信氏が経営から完全引退した。なぜ、名経営者として持ち上げられた人の多くが、人生の総仕上げといえる局面で失脚するのか。伝説の「東証講演」で稲盛和夫が語った話から、その原因を考える。

この一つ前の記事が、埼玉県民の誇り、36期連続増収益のヤオコーの創業者の記事でした。これも、海辺に生きるものの心には染み入りますね。「魚の魂に報いなくちゃ駄目」です。

「魚の魂に報いなくちゃ駄目」  最強のスーパー、ヤオコーの秘密
バブル崩壊前から36期連続で増収増益という最強のスーパー「ヤオコー」。その強さの核心を探ると「商禅一如」という考え方にたどり着く。多くの食品スーパー経営者が学びながら、実践できなかったという、その精神世界をひも解いた。

AIの要約も便利だけれど、記者さんの書いた記事もたまには良いものです。

NGO時代の記憶がよみがえった

記事を読みながら思い出したのは、ダイビング屋さんをやる前、NGOで働いていた頃のことです。

当時、NPOの立ち上げから一緒に働いていた元埼玉YMCAの二子石さんや、カンボジアワークキャンプのカウンターパートの団体を立ち上げた、インド系マレーシア人のシンさんという方と交流がありました。

二子石さんはプロテスタントの信仰をお持ちで、シンさんはバハイ教(今話題?のイラン発祥で、より現代にアジャストされた比較的新しい宗教)の方でした。そういう信仰を持つ人たちと一緒に、青少年の教育やリーダーシップトレーニングなどのNGO活動をしていました。

そのときシンさんが、まだ20代で若かった私に言っていたのが、「自分は神の instrument(道具)だ」という言葉でした。神、あるいは宇宙の意思みたいなものがあったとして、それが自分という能力や力を持った一個の人間を通じて、社会や世の中に働きかけていく。自分はそのための道具にすぎない、と。

当時の自分も、この発想はいいなと素直に思っていました。その結果、20代の後半で洗礼を受けちゃったりもしました。

「俺が俺が」の反対側にあるもの

稲盛さんの記事では、偉くなってくると「俺が俺が」になって晩節を汚してしまう経営者が多い、という話が出てきます。その反対側に置かれていたのが、「自分より大きなもののために働く」という姿勢でした。

自我はもちろんあります。自分というものは確かにある。ただ、それが自分のためだけじゃない方向に向いているかどうか。こういう視点で、人の見え方も生き方も変わってくるんだろうと思います。

私は経済界の大物ではもちろんありません。アニラオで小さなダイビングリゾートをやっている一人の日本人です。それでも、こういう考え方を本来の自分はしていたんだ、と今日改めて気づけたのは、人生における結構大きな発見だったのではないでしょうか。

AIの進化に「追いつけない自分」を責めなくてよい方法

最近、AI周りの技術をいろいろ触っています。新しいスキル、新しい技術、仕様の変更点が毎日毎日更新されていく。追いかけていくだけで疲れてしまうし、追いつけていない自分に負い目のようなものを感じそうになる瞬間があります。

でも、本当に大切なところはそこではありません。

自分が無理しない範囲でできること、世のため人のためにできることをやっていく。その土台となる思想として、「宇宙の意思(あったとして。それを信じるのが宗教ですね。一応、私はクリスチャンです)の道具が自分」という発想は、ブレない、落ち込まないためにかなり重要なんじゃないでしょうか。「パパラギ」風に言うなら、自然のため、でもいい。大いなる意思のため、でもいい。

学ぶことは楽しいし、新しくできるようになるのは単純に嬉しい。ただ、それを何のために使うのか。自分のためだけに溜め込むのか、外に向けて分かち合っていくのか。その方向づけの部分が、たぶん一番大事です。

そういえば、国連で働いていたのに辞めてカンボジアの若い世代の教育NGOを立ち上げ、掘っ立て小屋に住んでいたシンさんが言っていました。「知識は、人を励まし、導き、幸せにするためにある」って。これも今書いていて思い出しました。

懐かしくなって検索してみたら、今は東チモールやラオスの若者のためにも教育活動を続けているみたいです。確か、16歳違いだったので、いまは67歳くらいかな?

今日のまとめ

NGO時代にシンさんから聞いた「自分は道具」という言葉が、ひょんなことから掘り起こされました。当時の出会いに感謝ですし、再び思い出せたことは人生の宝です。

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