【弾丸日本1泊2日】高校同窓無駄にさすべからず

日本に帰ってきました。久しぶりの成田着で、京成成田アクセス特急→武蔵野線で東所沢ルートがなかなかに使えるということが、初めて分かりました。成田埼玉間の便の良いバスがまだ復活しないので、次使う時のオプションとして、覚えておきたいものでした。

今回の弾丸帰国のもう一つの目的が、10周年記念Tシャツの受け取りと、マニラまでの運び。薄いのは嫌じゃという奥さんの意見を尊重して、一段厚い生地にしたところ、結構の厚み。丈夫そうだけれど、フィリピンで着続けるには、ちょっと暑苦しいかも。

記念イベントまでは、デザイン内緒です。

短い滞在ですが、母と食事をして、同窓会会場のある川越市へ。

前回スタッフを連れてきた時にも触れましたが、Pepe、タガログ語だと放送時にピーが入りそうな単語です。

QBハウスで髪を切って(さっそく奥さんからダメ出しが出ました。曰く「海苔?」)、時間があったので、通っていた高校まで通学路を歩いて行ってみることに。32年ぶりです。

大分観光化が進んだ川越の街。通学路の面影がないです。途中から多分違う道を進んでいたと思います。高校に着いたら、Googleマップで検索して、最短距離ルートと自分の記憶を頼りに当時の通学路を再現するしかなさそうだと判断。

名物だった太麺焼きそばを出すみどり屋さんは、2018年ごろ廃業したらしいですが、店舗は残っていました。軒先に置いてあったストリートファイターIIで、ガイル使いにボコボコにされた記憶が少し蘇りました。

パンや500mlのジュース、チェリオなどを販売していた、正門前の個人商店はなくなって駐車場に。今の在校生は、小腹が空いた時どこで食べ物を買っているのでしょうね。

一旦高校まで行って、時間もあったので、敷地の周りをひとまわり。高校裏手の川越城跡の横には、童謡通りゃんせ発祥の地だという石碑が。

視覚障がい者信号で使われていたあれです。ペーペーぽーぺぺぽぽー。

と書いていて気づきましたが、今は信号の音、「ピヨ」とか「カッコー」に変わっていますね。いつの間に。

ちょうど先程、母と食事をしていたときに、外国籍の児童に教える日本の遊びって何があるのか(元教員にきいてくるより、そのうち文章生成AIに聞くようになるのかもですね)を話していた中で、通りゃんせが出てきたので、不思議な偶然でした。

在校中全く気づかず、卒業して32年も経ってから事実を知る迂闊さ。目的地を往復しかしない悪癖はこの頃からだったのですね。歴史資料館などもあるので、今度機会を作っていってみようと思います。

高校周辺なのに、人力車が観光客を連れ回す観光地の一部になっているなんて、時代の流れを感じます。

みどり屋の焼きそばが食べられなかったので、似たような太麺焼きそばを食べるべし、ということで、神社横の小峰商店さんへ。駄菓子屋さんです。

焼きそば並盛300円。大人にとっては安いですが、子どものお小遣いで買うにはちと高いかも? みどり屋の焼きそばも大して美味しいものではなかったのと同じく、ソースの酸味の強い、太い焼きそば。郷愁が味を上乗せしても、まぁまぁの味です。

歩いて帰ろうとすると、トトロがいそうな一角発見。これが川越城の物見櫓がたっていたところです。ここも高校3年間で訪れることがなかった場所。

市立図書館の脇をとおりながら、たしかここが通学路だったと、駅を目指すと、前方から歳が近いおじさんの集団が。「同窓会前に高校に行ってみたいというのは同じだなー」と眺めていると、知った顔が。ラグビー部の面々でした。

顔と身体つきが高校時代とかなり変わっている自信があったのですが、ここは元気に「おおー元気ー?」と道の真ん中で握手を求め、不審人物から部活の同窓の認識をしてもらうことができました。

で、もう一度高校まで行くことに。

外国在住なので、IDを持っていない身分で学校敷地内に入るなんてもってのほかという常識になってしまっていましたが、日本はそういうの平気な国だったんでしたね。懐かしの校庭で、ラグビー部基本運動の「膝下げ」。スクラムを組むフォワードだけに必要なのではなくて、低い姿勢でタックルをするバックスにも必要な基礎練でした。体幹も鍛えられるし、中年がやっても結構いいのかも。

で、いよいよ最初で最後になるのかもしれない大規模な同窓会。仕事をしながら沢山のメンバーへの連絡と準備をしてくれた幹事に感謝です。

高校時代を懐かしんでも特に生産性はないので、失われていた絆が復活し、今後の人生になにかお互い力になれる会になればと思って参加しました。

そうそう、Facebookが出だした頃の2010年にアカウントを作った際、ずっと切れていた高校時代の生徒会の友人と再接続することができて、そのときに「確かオオサワくん、卒業名簿で死んだことになってたよ」と聞いていた、その事実を入手しました。

32年ぶりに会った、スクラムハーフのイワネくん。証拠の名簿の画像を送ってくれてありがとう。

死んでいたのが蘇ったのならジーザスですが、どちらかというと死んでいたのが見つかった放蕩息子って感じですかね。

しかし、生きていたとはいっても、この当時の写真とは随分ちがってしまっていて、しかもフィリピン在住、特殊詐欺グループの本拠があるような土地から来たから、偽物だといわれてもあながち間違いだとは証明できないのかも。

2次会で集った生徒会室界隈にいたメンバーの面々に聞くと、「姿は違っていても、声と話し方がヨシオ」だということですが、当時はもっと澄んだ声だったのだと。そういえば最近確かに喉が粘っこい。加齢粘液が咽頭にこびりついているようです。

生徒会長、書紀二人、会計二人とくすのき祭実行委員の面々。副会長のハセベくん、どうしているかな。文化祭実行委員長や、門班班長ほかとも会いたかった。

参加者の中では最も遠くからの参加だということと、フィリピン在住でダイビング宿経営という変わった経歴に幹事が気を利かせてくれて、登壇して近況報告をする機会をくれました。

二番手は、同じラグビー部で、こっちはレギュラー(私は大抵どのスポーツでも控え)。大手商社を脱サラして、ブドウ畑を開墾してワイナリー(モンガク谷ワイナリー)を経営している木原くん。

海辺の人より黒いとは、さすが北海道とはいえワイン農家。

北海道旅行の際には、当時元気だったお義父さんと一緒に訪ねたのが懐かしいです。

個人事業をしている面々もいて、それぞれ色濃い人生を歩まれているようでした。

不思議なもので、32年の間で何をしていたかはお互いに問わずとも、すぐに打ち解けることができるのは、高校という同窓だったからか、同時代を生きた共通項があるからなのか。マニラダイバーのどなたかが言っていましたが、「同学年というしばりは別格」というのが、よく分かるように思います。

名刺を交換させてもらった人も多数いるので、アニラオに戻って、10周年記念のイベントがすんで落ち着いたら、当日話せなかったことなども少しまとめた自己紹介をしつつ、さらなる繋がりができるようなメールを送ろうかなと思います。

毎度日本に返ってくるたびのあるあるの、ずっと使っていない靴を履くと靴底が崩壊する件。今回も1日1万8,000歩歩き終わる前にすでのペロペロ。

高校の時は草履で確か登校していたこともあったはずで、それに倣ってギョサンももってきていたのですが、秋深し、流石に靴でよかったです。

台風24号が心配なアニラオの方は、予測通り土曜日はまだ凪いではいるものの、台風警報シグナル1がバタンガスに出た影響で、コーストガードからすべてのマリンアクティビティ禁止のお達し。

ただ、現場をよく知るリゾートオーナー協会のメンバーと、マビニ町の観光課担当曰く、「ビーチエントリーなら大丈夫でしょう」ということで、ハスリーフでビーチエントリー。昨日発令された、最大2メートルの高潮もなし。お役所がガセネタを流して、住民を混乱させたとして、反省は全くなしなのは、いつも通り。

ベタ凪ですよ。

アートな写真提供、ドロンジョさん。ありがとうございます。

明日も日帰りの方は延期していただいたので、アニラオにいるのはお泊りの方々のみ。明日こそは海が荒れてくると思うので、今日よりまなじりを決して海の様子を見極めてから潜れるか判断をしたいと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました